ナウマン博士

ハインリッヒ・エドムント・ナウマン

Heinrich Edmund Naumann (1854~1927)

Keywords:明治時代、ドイツ人、お(やと)い外国人、地質(ちしつ)学者、ナウマンゾウ

ナウマン博士は、ドイツの地質(ちしつ)学者で、明治政府(せいふ)(まね)きで弱冠(じゃっかん)20才で来日しました。
明治8年(1875年)~明治18年(1885年)の10年間に行った主な仕事は、東京大学地質(ちしつ)学教室の初代教授(きょうじゅ)となって地質家(ちしつか)を養成したこと、現在、茨城県つくば市にある国の調査(ちょうさ)機関、地質調査所の設立(せつりつ)尽力(じんりょく)し、設立後は、調査責任者(せきにんしゃ)として、日本列島の地質調査に従事(じゅうじ)し、日本初の本格的な地質図を完成させたことです。
近代地質(ちしつ)学を伝えたことと地質図をつくったことは、明治の殖産(しょくさん)興業(こうぎょう)に大いに貢献(こうけん)したにちがいありません。
調査は北海道を除く地域で行われ、調査距離(きょり)は1万kmにもおよびました。
当時は、等高線のある地形図はなく、あったのは伊能図(いのうず)の海岸線の輪郭図(りんかくず)のみでしたから、地形図をつくりながら(測量(そくりょう)しながら)、地質調査をするといった大変な仕事だったようです。
野尻(のじり)()の湖底発掘(はっくつ)で有名なナウマンゾウの名前は、日本でゾウの化石をはじめて研究した博士の名前にちなんでつけられました。

青年時代のナウマン博士

晩年(ばんねん)のナウマン博士

ナウマン博士の調査ルート

ナウマン博士が日本に滞在した期間は9年足らず。しかし、その間にナウマン博士はなんと1万kmもの距離(きょり)を調査しています。

この距離は、東海道新幹線(しんかんせん)で東京駅と京都駅の間を10往復したものに相当します。

ナウマン博士が調査に当たった頃は、ようやく鉄道が新橋・横浜間や京都・神戸間にできたばかりでしたので、調査のほとんどは徒歩や馬による移動(いどう)でした。

さらに当時の日本では地質(ちしつ)調査に使えるような精密(せいみつ)な地図がありませんでした。(伊能(いのう)忠敬(ただたか)の地図には、海岸や主要街道を測量(そくりょう)していったため、輪郭(りんかく)正確(せいかく)ですが、内陸の情報(じょうほう)が少なかったのです。また、等高線も(えが)かれていませんでした。)このため、ナウマンの地質調査は、地形図を作りながらの作業でした。

ナウマン博士の調査ルート図

ナウマン博士のフォッサマグナ ― 大地の大きな(みぞ)

フォッサマグナ(Fossa Magna)はラテン語で、「大きな(みぞ)」という意味です。

左の図にように、古い時代の岩石(おもに中生代・古生代、「(うす)い茶色」)でできた 、ほぼ南北方向の溝の中に、新しい時代の岩石(新生代、「緑色」)がつまっています。

この溝は、上空から見下ろしてわかるような、地形的な溝ではなく、山々をつくっている地層(ちそう)や岩石を知ってはじめてわかる「地質学的な溝」です。この「地質学的な溝」を、ナウマン博士は「フォッサマグナ」と呼びました。

ナウマン博士は、フォッサマグナの西縁(せいえん)糸魚川(いといがわ) -静岡構造(こうぞう)線、東縁(とうえん)直江津(なおえつ)平塚(ひらつか)線と考えました。

このようにフォッサマグナは、三次元の地質(ちしつ)構造(こうぞう)(二次元の広がりを呼ぶ場合もある。フォッサマグナ地域など)をさすものです。したがって、糸魚川-静岡構造線は、その西縁の境界面(断層面)ですから、「フォッサマグナ」と「糸魚川-静岡構造線」は同じ意味ではないことに注意してほしいと思います。

また、フォッサマグナのもう一つの地質学的な特徴は、フォッサマグナの真ん中に南北方向の火山列があることです。北から代表的な火山をあげると、新潟焼山(やけやま)妙高山(みょうこうさん)黒姫山(くろひめやま)飯綱山(いいづなやま)八ヶ岳(やつがたけ)・富士山・箱根・天城山(あまぎさん)などです。

フォッサマグナの地下には、フォッサマグナの部分が落ち込んだ時にできた南北方向の断層(だんそう)があって、それを通ってマグマが上昇し、南北方向の火山列ができたと考えられています。

現在のフォッサマグナの範囲(はんい) 
(みぞ)の深さは、6000メートル以上

黄丸印は、深さ6000m級のボーリング調査が実施された位置

ナウマン博士がフォッサマグナを命名(1886年)してから、120年以上もたちましたから、日本列島の地質(ちしつ)調査も大きく進展しました。この結果、ナウマン博士が予想したようなフォッサマグナの東縁(とうえん)を示す明瞭(めいりょう)境界(きょうかい)直江津(なおえつ)平塚(ひらつか)線)は見つかりませんでした。

そこで、明瞭(めいりょう)地質(ちしつ)学的な(みぞ)をさがすとすれば、左の図のように、西縁(せいえん)糸魚川(いといがわ)-静岡構造(こうぞう)線、東縁は新発田(しばた)小出(こいで)構造線と柏崎(かしわざき)-千葉構造線にはさまれた地域(ちいき)となります。

現在、この地域(ちいき)をフォッサマグナと呼ぶことが一般的なようです(しかし、このフォッサマグナを認めない立場もあります)。この範囲(はんい)をフォッサマグナとすると、フォッサマグナの中に古い時代の岩石でできた関東山地が残って奇妙(きみょう)です。

しかし、関東山地を、フォッサマグナが落ち込んでできた時の落ち残りだと考えると、現在のフォッサマグナの範囲(はんい)を受け入れることができそうです。

さて、フォッサマグナの(みぞ)の深さはどれくらいあるのでしょうか。左の図で、黄丸印は、深さ6000m級のボーリング調査(ちょうさ)実施(じっし)された位置です。

しかし、それらのボーリングは、新しい地層の下にあるはずの古い時代の岩石に到達することができませんでした(上の図)。

したがって、深さは6000m以上ということになります。また、北アルプス(古い時代の岩石)は標高約3000mあり、越後(えちご)山地(古い時代の岩石)は約2000mありますから、それらの標高を足すと8000m~9000m以上の深さがあることになります。
ちょうど、ヒマラヤ山脈(さんみゃく)がすっぽり()まってしまう、(かく)された(みぞ)があるのです。