ヒスイって何だろう
国石ヒスイ
ヒスイ(翡翠)は宝石の一種で、特に東洋で人気の高い宝石です。古くから日本で広く長い間にわたって利用され、考古学的に重要であり、地質学的にも日本のような沈み込み帯でのみできる『日本ならでは』の石なので、2016年9月24日に日本鉱物科学会が『国石』に選定しました。
2016年9月24日に日本鉱物科学会が『国石』に選定
糸魚川の小滝川や青海川ヒスイ峡は天然記念物に指定されるなど、大事に保全されています。そのため、ヒスイは今でも野外で見ることができ、将来の人たちも野外で見ることが保障されていることも、国石としてふさわしいと評価されました。
ヒスイを構成する鉱物
ヒスイはダイヤモンドやルビー、エメラルドなど単一の鉱物でできている宝石とは異なり、さまざまな鉱物が集まってできています。ヒスイのほとんどの部分はヒスイ輝石という鉱物からできていますが、濃い緑色の部分は、オンファス輝石という鉄やマグネシウム、カルシウムを含む鉱物に近い組成を持っていることがわかってきました。
その他にも、曹長石やぶどう石、方沸石、ソーダ珪灰石、チタン石やジルコンなどが含まれることもありますが、石英は含まれません。
2種類のヒスイ 硬玉と軟玉
これまで多くの教科書で、ヒスイ(jade ジェイド)は、硬玉(jadeite ジェイダイト)と軟玉(nephrite ネフライト)の2種に分けることができると書いてありました。
普通、宝石店で販売されているヒスイは硬玉の方で、価格的には硬玉の方が高価です。
宝石店に行って「ヒスイを見せて下さい」と頼んだとします。店員さんは「硬玉と軟玉のどちらにしましょうか?」などとは言いません。このようにヒスイと言えば普通は硬玉のことを意味しています。
実は硬玉という呼び方はほとんど死語になっており、多くの分野では単にヒスイと呼んでいます。硬玉という用語をいまだに使っているのは考古学の世界ぐらいです。一方、軟玉(ネフライト)の方は宝石や考古の分野など広く使われています。
日本では太古の昔からヒスイ輝石からできている硬玉と、角閃石(透閃石、透緑閃石)からできている軟玉をきちんと区別していましたが、欧米はそうではありませんでした。 明治時代に欧米の科学が日本に輸入され、地質学の近代化か進められたとき、硬玉と軟玉の区別があいまいだった欧米の見方が導入されてしまったのです。欧米では硬玉と軟玉の混同がいまだに見られ、場合によっては蛇紋岩すらもヒスイ(Jade)というラベルがつけられていることがあるぐらいです。緑色をした緻密な石はみんな"Jade"になってしまうのは困ったことです。
フォッサマグナミュージアムでは、大部分がヒスイ輝石やオンファス輝石などからなるものをヒスイやヒスイ輝石岩と呼び、大部分が透閃石~透緑閃石からなり、緻密なものを軟玉(ネフライト)、透閃石岩と呼ぶことにし、硬玉という用語は使わないことにしています。
ヒスイの色
ヒスイの色 | 色の原因 |
---|---|
白色 | 純白に近いヒスイ輝石からなり、色の原因となる元素を含まないため白く見えます。 |
緑色 | 緑色の濃い部分はオンファス輝石に含まれる微量の鉄やクロムが原因です。 |
薄紫色 | 薄紫色の部分は、ヒスイ輝石に含まれる微量のチタンと鉄が色の原因です。 |
青色 | 青色の部分は、オンファス輝石に含まれるチタンと鉄が色の原因です。 |
黒色 | 黒い部分は、石墨からなり、色の原因は炭素です。 |
緑色が最も有名ですが、それ以外に白・淡紫・青・黒・黄・橙・赤橙などの色があります。日本では橙~赤橙色のヒスイは発見されていません。
以前、糸魚川では『ピンクヒスイ』と呼ばれる石がありました。これはヒスイではなく、桃色をした単斜灰れん石(桃れん石)を含むロディン岩です。
ヒスイの色は、含まれる微量な成分の違いによって生み出されていることが分かっています。純粋なヒスイ輝石は白色ですが、少量のクロムや鉄を含むと緑色となります。また、淡紫色のラベンダーヒスイはチタンを含むヒスイ輝石、青色のヒスイには、チタンを含むオンファス輝石、黒色のヒスイには石墨が含まれており、それぞれ色の原因になっています。
日本のヒスイの産地
糸魚川および糸魚川周辺地域(朝日町・小谷村・白馬村)が最大の産地です。
このほか、鳥取県若桜町、兵庫県養父市大屋、岡山県新見市大佐、長崎県長崎市(三重・琴海)、北海道旭川市・幌加内町、群馬県下仁田町、埼玉県寄居町、静岡県浜松市引佐、高知県高知市、熊本県八代市からヒスイが発見されます。
宝石になるようなきれいなものが多産するのは糸魚川ですが、鳥取県若桜からはラベンダーヒスイ、長崎市琴海からは灰緑色のヒスイを産し、宝石にはならないまでも、なかなかきれいなものがあります。
世界のヒスイの産地
ミャンマー、ロシア、カザフスタン、アメリカ、グアテマラ、ドミニカ、インドネシア、イタリアなどが知られています。
日本でヒスイの利用
約5,000年前の縄文時代中期に糸魚川で縄文人がヒスイの加工を始めました。これは世界最古のヒスイと人間の関わり(ヒスイ文化)です。
その後、弥生時代・古墳時代を通じてヒスイは非常に珍重されましたが、奈良時代以降は全く利用されなくなってしまいました。そのため、糸魚川でヒスイが採れることも忘れ去られ、日本にはヒスイの産地はなく、遺跡から出るヒスイは大陸から持ち込まれたものと昭和初期まで考えられていました。
ヒスイの再発見
昭和13年(1938)、夏前のこと。糸魚川の偉人・相馬御風氏が知人の鎌上竹雄氏に、昔、糸魚川地方を治めていた奴奈川姫がヒスイの勾玉をつけていたので、もしかするとこの地方にヒスイがあるのかもしれないという話をしたそうです。
鎌上さんは親戚の小滝村(現在の糸魚川市小滝)に住む伊藤栄蔵氏にその話を伝え、伊藤氏は地元の川を探してみることにしました。 8月12日、伊藤氏の住む小滝を流れる小滝川に注ぐ土倉沢の滝壷で緑色のきれいない石を発見しました。
昭和14年(1939)6月、この緑の石は、鎌上氏の娘さんが勤務していた糸魚川病院の院長だった小林総一郎院長を通じて、院長の親類の東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野義礼先生へ送られました。 河野先生が神津俶祐教授の所有していたビルマ(ミャンマー)産のヒスイと偏光顕微鏡や化学分析で比較した結果、小滝川で採れた緑色の岩石はヒスイであることが科学的に証明されました。
昭和14年(1939)7月、河野義礼先生による現地調査によって、小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることが確認され、この年の11月に岩石砿物砿床学という 東北大学が中心となって発行していた学術雑誌に論文が掲載されました。
ヒスイの再発見まで
ヒスイの再発見の謎
昭和13年(1938)当時、日本にはヒスイの産地がないとされていました。考古学の世界では、遺跡から出土するヒスイがいったいどこから来たものかということが、大きな問題となっていました。
相馬御風氏は考古学に詳しく、八幡一郎博士など高名な考古学者との交流もあり、日本にヒスイの産地が知られていないことを知っていたはずです。しかし、不思議なことに御風氏は伊藤栄蔵氏が小滝川でヒスイを発見したことを知人の考古学者に伝えていないのです。
さらに御風氏は年に4から6号のペースで個人雑誌「野を歩む者」を発行しており、巻末の身辺雑記には身の回りに起きたこと、訪ねてきた知人のことなど、詳しく書いているのですが、その身辺雑記にも小滝川でヒスイが発見されたことや、東北大学の、河野義礼先生がヒスイの調査に来たことなどが書かれていません。
御風氏は亡くなる昭和25年(1950)まで糸魚川で発見されたヒスイのことをまったく触れていません。
どうして御風氏はヒスイについて沈黙を続けたのでしょうか。フォッサマグナミュージアムが刊行した書籍「国石翡翠」では御風の沈黙の理由として以下のようなものを推測しています。
①戦争中だったから
ヒスイが小滝川で発見された昭和13年(1938)には、日本と中国の戦争が始まっていました。このような時期にヒスイの発見を発表してしまうと、きちんとした保護ができないので、御風氏はヒスイ発見のことを知らせなかったという考えです。
しかし、終戦後も御風氏はヒスイのことを何も語っていないのが謎として残ります。
②ヒスイを戦争利用されたくなかったから
戦時中、多数の天然記念物が指定されています。これは保護よりも、国威発揚を意図したものだそうです。ヒスイ発見を公表し、天然記念物になれば戦争推進に利用されるので、あえて沈黙したのだとするものです。
しかし、御風氏の個人雑誌の記述には戦争礼賛が多数見られ、約80曲も作詞した国民歌の曲名には「一億進軍」、「皇軍凱旋(がいせん)」、「神国顕現」、「銃後の乙女」など戦争推進のためのものが多く見受けられるのです。
③体力が衰えていたから
御風氏は大腸カタル(1944年)、敗血症(1945年)、左眼失明(1946年)、体調不良で寝たきりに近い状態(1947~1950年)というように、1950年に亡くなる直前は、大きな病気に頻繁にかかっています。この体力的な衰えがヒスイのことを世に紹介できなかった理由ではないかいという考えです。
しかし、御風氏の著作の数を調べてみると、1942~1950年の間に15冊の本を刊行し、個人雑誌「野を歩む者」も1950年まで発刊しており、病弱だったとは言え、執筆の意欲はあったことが明らかです。
また、ヒスイが発見された以後の主な来客は、北大路魯山人(1938年)、小川未明(1940年)、新潟県副知事・前田多門(1944年)、会津八一(1945年)があり、ヒスイのことを話すことは十分にできたはずなのです。会わなくても手紙などで知人の考古学者に伝えることもできたはずです。それをなぜしなかったのか、御風氏の沈黙はヒスイ再発見にまつわる大きな謎となっています。
④命がけの沈黙
相馬御風氏は、河野先生が現地調査に来た時に会っておらず、旧知の考古学者・八幡一郎博士にもヒスイ発見を伝えていません。これは、ヒスイ発見を知らなかったのではなく、ヒスイ発見を隠したかった証拠なのではないでしょうか。
御風氏は何のためにヒスイの発見を隠蔽し、戦後に渡っても沈黙を貫いたのでしょうか。それは戦争にヒスイを利用させてはならないという御風氏の命懸けの信念なのかもしれません。前述のように糸魚川帰住後に御風氏が編集していた雑誌「野を歩む者」の記述や国民歌の歌詞や題名を見ると、御風の戦争礼賛の姿勢は明確で、一見戦争を積極的に推進しているかのように感じます。ですが、「野を歩む者」が最初から戦争を礼賛し、推進する記述だったわけではなく、1937年4月発行の創刊号から1937年7月発行の第42号までは天候・農作物の出来栄え・自分の心情・家族のこと・事件や事故・火災・地震・日食・恩師や知人の訃報などの記述が中心でした。
しかし、自身も書いているように盧溝橋事件の発生した後の1937年10月に発行された第43号から、その記述は激変し、戦争に関する記述が中心となり、それは1945年5月に発行された第73号まで続いています。御風氏は、戦争の激化に伴い、一見すると戦争推進の立場をとっていたように思われますが、心の中では反対だったのかもしれません。
戦後も御風氏はヒスイ再発見について、引き続き沈黙を続けています。戦前の御風の沈黙の理由が、戦争にヒスイを利用させないためであるなら、なぜ終戦後も沈黙を続けたのでしょうか。戦後の日本は、戦火によって荒廃し、天然記念物の指定も1951年までほとんどなされませんでした。御風氏は、連合国に占領され荒んだ戦後の日本を見て、今、ヒスイの再発見を発表すれば、進駐軍によって没収、盗掘されるのではないかと恐れ、まだ公表できる段階ではないと考えたのかもしれません。
このように考えると、御風氏の戦後の沈黙が合理的に説明でき、ヒスイを守るために、命をかけて沈黙を貫き通すことを決めたといえるのです。
昭和13年(1938)以外のヒスイ再発見史
伊藤栄蔵氏は昭和13年(1938)にヒスイを発見したと糸魚川市史でされていますが、これ以前にも糸魚川でヒスイを発見したという話が伝わっています。
糸魚川市史を編纂した青木重孝氏(1903-1994)は、1917年(大正6年)の秋の夕方、旧制糸魚川中学校(現糸魚川高等学校)2年生の時に、根知川と姫川の分岐点に近い通学道路上で緑色に輝く親指大の緑色半透明の石を拾い、これを糸魚川中学校の今井一郎理学士に見せたところ「日本にはないめずらしい鉱物」ということで中学校の標本室に展示され、2名の考古学者がその後見たと糸魚川市史の第1巻に書いています。また、帝室博物館の後藤守一博士(1888-1960)は1930~1931年頃に、妙高で子持ち勾玉の調査を行った際に、糸魚川中学校の鉱物標本室でヒスイを見たと1951年12月31日の新潟日報の記事にあります。これら旧制糸魚川中学校にあったとされるヒスイは、正式に分析されることもなく、戦後行方不明になってしまいました。
考古学者であり、精力的にヒスイについて研究を進めていた八幡一郎博士(1902-1987)は、1923年に関東大震災で荒廃した東京を離れ、糸魚川の相馬御風氏宅を訪れた際に、また、博士は、1923年に糸魚川の相馬御風氏宅を訪れ、旧制糸魚川中学校でヒスイの蔵品を見たあとに、長者ケ原遺跡で、白くてきめが細かく、点々と草緑色の斑点がある礫を拾い東京に持ち帰ったと発掘報告書『長者ケ原』序文に記しています。 この礫は坪井誠太郎博士によって分析され、石英岩の一種であり、草緑の斑点は特殊鉱物との接触によるものと鑑定されました。諦めきれない博士は、1942年にも長者ケ原遺跡を訪れ同様の礫がないか調査したが発見できず、緑色の礫は1942年に完成した資源科学研究所で保管していましたが、1945年の空襲で焼失してしまいました。
これらの発見が本当であれば、糸魚川のヒスイは昭和13年(1938)以前から知られていたことになります。しかしながら、当時の資料はいずれも失われており、確かめる手段はありません。
ヒスイの再発見は昭和10年(1935)なのか
長い間、ヒスイの再発見年は糸魚川市史にあるように1938年とされてきました。しかし、郷土史家で相馬御風の研究を進める金子善八郎氏は、糸魚川ヒスイの再発見年を1938年とするものと、1935年とするものがあることを指摘しています。
フォッサマグナミュージアムの文献調査により、糸魚川市史第1巻の「翡翠発見」の記述の元になった文献を入手することができました。1961年に鉱物学者である益富壽之助氏が地学研究に投稿した「故岡本要八郎先生と青ヒスイ」には、益富氏が伊藤氏からヒスイ発見の経緯について詳細に聞き取った内容が記載されています。この論文によれば、再発見の年は1935年とされており、組合病院の設立(1938年)、河野義礼の調査(1939年6月ごろ(正しくは7月))などの時系列の並びが正確に書かれていて、記述内容の信頼性は高いと考えられます。
伊藤栄蔵氏が先生と尊敬する益富壽之助氏に対して、嘘を伝えるとは考えられないため、この文献から推測すると、真のヒスイ再発見年は1935年の可能性が高いといえます。
このように、ヒスイ再発見の経緯には多くの謎があります。
- なぜ相馬御風氏はヒスイについて語らなかったのでしょうか。
- 昭和13年(1938)以前にヒスイは再発見されていたのでしょうか。
- ヒスイ再発見は、本当に昭和13年(1938)なのでしょうか。益富氏は昭和10年(1935)となぜ記載したのでしょうか。
フォッサマグナミュージアムでは、引き続き、ヒスイ再発見にまつわる謎について解明を進めていきます。